この女作者の頭腦のなかは、今までに乏しい力をさんざ絞りだし絞りだし爲てきた残りの滓でいつぱいになつてゐて、もう何うこの袋を揉み絞つても、肉の付いた一と言も出てこなければ血の匂ひのする半句も食みでてこない。暮れに押詰まつてからの賴まれものを弄くりまはし持ち扱ひきつて、さうして毎日机の前に坐つては、原稿紙の桝のなかに麻の葉を拵へたり立枠を描いたりしていたづら書きばかりしてゐる。
女作者が火鉢をわきに置いてきちんと坐つている座敷は二階の四畳半である。窓の外に掻きむしるやうな荒つぽい風の吹きすさむ日もあるけれ共、何うかすると張りのない艶のない呆やけたやうな日射しが拂へば消えさうに嫋々と、開けた障子の外から覗きこんでゐるやうな眠つぽい日もある。そんな時の空の色は何か一と色交ざつたやうな不透明な底の透かない光りを持つてはゐるけれども、さも、冬と云ふ權威の前にすつかり赤裸になつてうづくまつてゐる森の大きな立木の不態さを微笑してゐるやうに、やんはりと靜に膨らんで晴れてゐる。さうしてこの空をぢつと見詰めてゐる女作者の顔の上にも明るい微笑の影を降りかけてくれる。女作者には然うした時の空模樣がどことなく自分の好きな人の微笑に似てゐるやうに思はれるのであつた。利口さうな圓らの眼の睫毛に、ついぞ冷嘲の影を漂はした事のない、優しい寬濶な男の微笑みに似てゐるやうに思はれてくるのであつた。
女作者は思ひがけなく懷しいものについと袖を取られたやうな心持で、目を見張つてその微笑の口許にいつぱいに自分の心を啣ませてゐると、おのづと女作者の胸のなかには自分の好きな人に對するある感じがおしろい刷毛が皮膚にさわる樣な柔らかな刺戟でまつはつてくる。其の感じは丁度白絹に襲なつた靑磁色の小口がほんのりと流れてゐるやうな、品の好いすつきりした古めかしい匂ひを含んだ好いた感じなのである。然うするとこの女作者は出來るだけその感覺を浮氣なおもちやにしやうとして、ぢつと眼を瞑つてその瞳子の底に好きな人の面影を摘んで入れて見たり、掌の上にのせて引きのばして見たり、握りしめて見たり、然もなければ今日の空のなかにそのおもかげを投げ込んで、向ふに立たせて思ひつきり眺めて見たりする。こんな事で猶更原稿紙の桝のなかに文字を一つづゝ埋める事が億劫になつてくるのであつた。
この女作者はいつも白粉をつけてゐる。もう三十に成らうとしてゐながら、隨分濃いお粧りをしてゐる。誰も見ない時などは舞臺化粧のやうなお粧りをしてそつと喜んでゐる。少しぐらゐ身體の工合の惡るい時なら、わざ〳〵白粉をつけて床のなかに居やうと云ふほど白粉を放す事の出來ない女なのである。おしろいを塗けずにゐる時は、何とも云へない醜いむきだしな物を身體の外側に引つ掛けてゐるやうで、それが氣になるばかりぢやなく、自然と放縱な血と肉の暖みに自分の心を甘へさせてゐるやうな空解けた心持になれないのが苦しくつて堪らないからなのであつた。さうしておしろいを塗けずにゐる時は、感情が妙にぎざ〳〵して、「へん」とか「へつ」とか云ふやうな眼づかひや心づかひを絕えず爲てゐるやうな僻んだいやな氣分になる。媚を失つた不貞腐れた加減になつてくる。それがこの女には何よりも恐しいのであつた。だから自分の素顏をいつも白粉でかくしてゐるのである。さうして頰や小鼻のわきの白粉が脂肪にとけて、それに物の接觸する度に人知れず匂つてくるおしろいの香を味ひながら、そのおしろいの香の染みついてゐる自分の情緖を、何か彼にか浮氣つぽく浸し込んで、我れと我が身の媚に自分の心をやつしてゐる。
どうしても書かなければならないものが、どうしても書けない〳〵と云ふ焦れた日にも、この女作者はお粧りをしてゐる。また、鏡臺の前に坐つておしろいを溶いてる時に限つて、きつと何かしら面白い事を思ひ付くのが癖になつてゐるからなのでもあつた。おしろいが水に溶けて冷たく指の端に觸れる時、何かしら新らしい心の觸れをこの女作者は感じる事が出來る。さうしてそのおしろいを顏に刷いてゐる內に、だん〳〵と想が編まれてくる——こんな事が能くあるのであつた。この女の書くものは大槪おしろいの中から生まれてくるのである。だからいつも白粉の臭みが付いてゐる。
けれどもこの頃はいくら白粉をつけても、何にも書く事が出てこない。生地が荒れておしろいの跡が干破れてゐるやうに、ぬるい血汐が肉のなかで渦を描いてるやうなもの懷しい氣分にもなつてこない。たゞ逆上してゐて眼が充血の爲に金壺まなこの樣に小さくなつて、頰が飴細工の狸のやうにふくらまつてくるばかりである。さうして何所にも正體がない。たゞ書く事がない、書けない、と云ふ事ばかりに心が詰まつてしまつて、耳から頸筋のまはりに蜘蛛の手のやうな細長い爪を持つたやは〳〵した手が、幾本も幾本も取りついてる樣なぞつとした取り詰めた思ひに息も絕えさうになつてゐる。それで今朝、この女作者は自分の亭主の前でとう〳〵泣きだして了つた。
「こんなに困つた事はありやしない。私何所かへ逃げて行きますよ。後であなたが好い樣に云つておいてくれるでせう。私にはもう何うしたつて一枚だつて書けないんだから。」
然うすると、火鉢の前で煙草をのんでゐたこの亭主は暫時返事をしないでゐたが、やがて、
「おれは知らないよ。」
と云つた。それが何う見ても小人らしい空嘯きかただつた。いつも私の事は私がするお世話樣にやならないと云つてる口は何所へ捨てゝきたんだと云ふ樣な、いかにも小つぽけな返報を心に疊んで、さうしてつんとありもしない腮を突き出したやうに女作者に見えた。それを見た女作者は急に自分の顏面の肉が取れてしまつて骨だけ露出したやうな氣がしたが、直ぐにそれは何所までも一本に突つ通つてゆく樣な吹つ切つた聲で、
「何ですつて。」
と云ひながら亨主の方をぢつと見た。
「おれは知らないつて云つたんだ。何だい。どれほどの物を今年になつて書いたんだ。今年一年の間に何百枚のものを書いたんだ。もう書く事がないなんて君は到底駄目だよ。俺に書かせりや今日一日で四五十枚も書いて見せらあ。何だつて書く事があるぢやないか。そこいら中に書く事は轉がつてゐらあ。生活の一角さへ書けばいゝんぢやないか、例へば隣りの家で兄弟喧嘩をして弟が家を橫領して兄貴を入れないなんて事だつて直ぐ書ける。女は駄目だよ。十枚か二十枚のものに何百枚と云ふ消しをしてさ。さうしてそれ程の事に十日も十五白もかゝつてゐやがる。君は偉い女に違ひない。」
男の聲は時々敷石の上を安齒の下駄で驅け出すやうな頓狂さが交じつてぽん〳〵と斯う云ひ續けた。女作者の顏は眼が丸くなつて行くに伴れて眉毛がだん〳〵に上がつて行つたが、泣くどころでなくて、失笑して了つた。
「成る程さうですか。それでもあなたは物を書く人だつたんだから實に恐れ入りますよ。」
女作者はふところ手をして、自分の棲先を蹴りながら座敷の內を飛んで步いた。泣いた淚が眼のはたに溜つてゐて冷々とする。自分の飛んで步いてゐる姿が姿見の前を橫に切る時にちらり〳〵と追羽根のやうに映る。女作者は自分の棲先の色の亂れを樂しむやうに鏡の前に行くとわざ〳〵裾をちらほらさせて眺めてゐたが、ふいと何かしら執拗く苛責めぬいてやり度い樣な氣がして來て、自分の身體のうちの何處かの一部がぐつと收縮してくる樣な自烈度い心持になつた。女作者は亭主の方を向くと、いきなり其の前に齒莖を出した口許を突き付けながら、拳固の中指の眞中の節のところでその額をごり〳〵と小突いた。
亭主は濟ましてゐた。
「ひよつとこ、ひよつとこ、盤若の面だ。」
然う云つても亭主は默つてゐる。女作者は自分の膝頭で亭主の脊中を突くと、立膝をしてゐた亭主は、火鉢の前へ橫に仆れたが、直ぐに又起き直つて小さな長火鉢へ獅嚙み付くやうに兩手を翳して默つてゐる。
「おい。おい。おい。」
女作者は低い聲で然う云ひながら、自分の亭主の襟先を摑むと今度は後の方へ引き仆した。
「裸體になつちまへ。裸體になつちまへ。」
と云ひながら、羽織も着物も力いつぱいに引き剝がうとした。その手を亭主が押し除けると、女作者はまた男の脣のなかに手を入れて引き裂くやうにその脣を引つ張つたりした。口中の濡れたぬくもりがその指先にぢつと傳はつたとき、この女作者の頭のうちに、自分の身も肉もこの亭主の小指の先きに揉み解される瞬間のある閃めきがついと走つた。と思ふと、女作者は物を摑み挫ぐやうな力でいきなり亭主の頰を抓つた。
こんな女の病的な發作に馴れてゐる亭主は、また始つたと云ふ樣な顏をして根强く默つてゐる。おなかの中では、
「何て悍婦だらう。」
と思ひながら、そつとして置くと云ふ樣な口の結びかたをして默つてゐる。
女作者は、もう一度その頭を指で小突いてから、又二階に上がつて來た。火鉢の中の紅玉を解かしたやうな火の色が仄に被はれて、ところ〴〵ざくろの口を開いたやうな崩れの隙から陽炎が立つてゐる。梅の花の蝶貝の入つた一閑張りの机の前に坐ると、まるで有るたけの血を浚ひ盡された後のやうに身體がげんなりしてゐる。さうして無暗と悲しくなつて、淚が落ちてきた。
「何と云ふ仕樣のない女だらう。」
泣いてる心の內ではこんな言葉が繰り返された。
ある限りの女の友達の內で、自分ぐらゐくだらない女はないとこの女作者は思つた。殊に二三日前に例にもなく取り澄ましてやつて來たある一人の友達の事が考へられた。その女は近い內に別居結婚をすると云つて行つたのである。たいへんに戀し合つてゐる一人の男と結婚をするまでになつたけれども、同棲をしない結婚をするのださうである。さうして一生離れて棲んで戀をし合つて暮らすのだと云ふ事だつた。
「結婚したつて私は自分なんですもの。私は私なんですもの。戀と云つたつてそれは人の爲にする戀ぢやないんですもの。自分の戀なんですもの。自分の戀なんですもの。」
八重齒を見せながらその女はこの女作者に斯う云つた。女作者はこの女の言葉に壓し付けられて少時は默つてゐた。
「あなたは苦しいの何のと云つてもあきらめて居られる人だからいゝ。心が苦しくつたつて形の上であなたはあきらめてゐる人になつてるんですもの。私は自分つてものをどんな場合にも捨てられない。自分は自分だわ。逢ひ度くなつたら逢ふし、逢ひ度くなければ逢はずにゐるわ。」
「でもあなたは、結婚しようとする人の事を每日思ひつゞけてゐるでせう。思はずにはゐられないでせう。」
女作者は眼をうるまして斯う聞いて見た。この女は單純に「えゝ。」と云つて、小指だけを反らせたやうな手付きで蜜柑の皮を剝いてゐた。
「私ぐらゐ自分のない女もない。右から引つ張られゝば右へ寄るし、左にも行くし、何てぐうたらな女でせう。」
「然うでもないでせう。それは今、何かの反動でそんな事を云つてゐらつしやるんでせう。」
この女は然う云つて蜜柑の一と房を口に含んだ。
「私は自分に生きるんだから。自分はやつぱり自分の藝術と云へるわ。自分の藝術に生きると云ふ事は、やつぱり自分に生きるつて事だわ。」
「私は自殺でもしたいほど苦しんでるの。何によつて生きたら好いのか分らないんですもの。私は何かに滅茶苦茶に取り縋らなくつちやゐられない樣な氣がしてゐるのだけれども、何にどう取り縋つたらいゝのか分らない。私は宗敎なんて事も考へますけれどもね。然うならいつそその道の人になつて了ひ度いやうな氣もしてゐるんです。」
「私だつて隨分考へたけれども、私はもう自分に生きるより他はないと思つてしまつたの。私は自分に生きるの。」
この女は然う云つて、その戀ひ男の黑いマントを被て歸つて行つた。
一人で生活をすると云ふ事もこの女作者は疾うから考へてゐた。一人になりたい、一人にならうと云ふ事に始終心を突つ突かれてゐる。けれどもこの女作者は一人になり得ないのである。一人の生活に復ると云ふ事がこの女作者には到底出來ない事なのであつた。
「そんなら何故結婚をなすつたの。」
その時も、女の友達はこの女作者に斯う云つた。
「あの人は私の初戀なんですもの。」
「ぢや仕方がないわね。」
何か云ひ度い事が殘つてゐるやうな氣がしながら、この女作者は笑ふよりほか仕方がなかつた。
初戀——それはこの女作者の十九歲の時であつた。初戀と云ふよりはこの女作者の淫奔な感情が、ある一人の若い男を捉へたと云ふに過ぎないものであつたかも知れない。けれども、その時のこの若い男によつてふと彈かれた心の蕾の破れが、今も可愛らしくその胸の隅に影を守つてゐるのであつた。この女作者が今の男に對する溫みはその影のなかゝら滲みでゝくる一と滴の露からであつた。この一と滴はこの女作者が生を終へるまで絕えず〳〵滲み出るに違ひない、一人にならうとも、別れてしまはうとも、その一と滴の濕ひは男へ對する思ひ出になつて、然うして又その男にひかれて行く愛着のいとぐちになるに違ひない。——
女作者はその女友達にこんな事は云はなかつた。さうしてその女友達が肉と云ふものは絕對に斥ける夫婦と云ふものを作らうとしてゐるらしい未通女氣とでも云ひ度いものに、この女作者の胸はもや〳〵にされた。女友達の戀の相手がどんな人だかはこの女作者は知らなかつた。新らしい藝術家と云ふ事だけは噂によつて知つてゐた。——もう一年經つたらあの女は私の前に來てどんな事を云ふだらう。女作者は然うも思つたけれども、さも自分に生きると云ふ事をもつともらしく解釋して、强い自分と云ふものを見せやうとしてゐたその女の友達の樣子に、おびやかされる程この女作者の今の心は脆い意久地のないものになつてゐる。——
女作者は我れに返ると、何も書いてない原稿紙に眼をひたと押し當てた。何か書かなければならない。何を書かう。……
「君は駄目だよ。」
斯う云つた先刻の亭主の言葉がふと胸に浮んだ。何故あの時自分は笑つてしまつたのだらう。いくらあの云ひ草が馬鹿々々しいと云つても、もう少し何か云つてやればよかつたと云ふ樣な反抗がついと湧いてきた。
「駄目な女なら何うなの。」
こんな事を云つて、又突つかゝつて遣り度い氣がしてきた。何でもいゝから自分の感情を五本の指で搔きむしるやうな事が欲しい。もつとあの男を怒らしてやらう。女作者はそんな事も思つた。
どれほど匂ひの濃かい潤ひを吹つかけて見ても、あの男の心は砥石のやうに何所かへその潤ひを直ぐに吸ひ込んでしまつて、さうして乾いた滑らかなおもてを見せるばかりである。
「私はあなたと別れますよ。」
斯う云へばあの男は、
「あゝ。」
と返事をするに違ひない。
「私は矢つ張りあなたが好きだ。」
と云へば、
「然うか。」
と返事をしてゐるやうな男なのである。自分の眼の前を過ぎる一とつ〳〵に對しても、自分の心の內に浸み込んでくる一人々々の感情でも、この男は自分と云ふものゝ上からすべてを辷らせて了つて平氣でゐる。この男の身體のなかはおが屑が入つてゐるのである。生の一とつ一とつを流し込み食へ込むやうな血の脈は切れてゐるのである。女作者は然う思ふと、わざわざ下へおりて行つて自分の相手にするのもつまらない氣がした。
けふは時雨が降つてゐる。雨の音は聞えずにたゞ雫の音がはら〳〵と響きを打つてゐる。風のふるえが障子の紙の隙間をばた〳〵とからかつてゐる。雨の降る日に遊びに行く約束をした人があつたが、と、この女作者はふと思つたが、その考へは何の興味も起させずに直きとなだらかに消えてしまつた。自分の好きな女優が舞臺の上で大根の膾をこしらへてゐた。あの手が冷めたさうに赤くなつてゐた。あの手を握りしめて脣のあたゝかみで暧めてやりたい。——
1913